京浜過激派研究会・柿沢ゆうじ 

[1-誕生の歴史] [2-セクトの誕生] [3-三つの全学連へ] [4-全共闘運動へ]
[5-革マル派系全学連] [6-中核派系全学連] [7-解放派系全学連] [8-あとがき]


全学連とは

 全学連【全日本学生自治会総連合】の誕生は、戦後間もない1948年(昭和23年)9月18日であった。この全学連は、左翼系学生を主体とした全国的な共闘組織であり、良くも悪くも戦後の学生・新左翼運動の中心となった組織である。現在では民青系、中核派系、革マル派系、解放派系と四つの全学連が存在する時代である。これに至る経緯は複雑で、さまざまな事件が起こった。

共産党=民青系全学連は、学生生活の日常要求路線だが、革マル、中核、解放の反代々木系は、学生運動を革命闘争、階級闘争として位置づけている点で、同じ「全学連」を名乗るが根本的に性質が違うと言えるだろう。


※この原稿を書くにあたって、さまざまな資料を参考にしましたが、もし、間違っている部分があったらご指摘下さい。

誕生前夜

 戦前の学生運動では、大正時代あたりからマルクス主義が先進的な学生の間に浸透し、マルクス主義を理念とした学生運動が興っていた。戦前の日本共産党が創設されてからは日共の影響力が強くなり、日共指導の下で、左翼的学生運動も発展してきた。

 1945年(昭和20年)、日本がポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦が終戦を迎えると、日本に進駐してきたGHQ(占領軍最高司令部)は、戦時中に日帝政府によって捕らえられていた政治犯たちを釈放した。政治犯の多くは非合法とされていた共産党員や、反戦運動活動家であった。その釈放された共産党員たちが続々と復党し、戦後の日本共産党を再建すると、学生運動にも積極的に介入していくことになるのである。


日本の学生運動は、ロシア革命の翌年の1918年に東京帝大の新人会、早稲田の民人同盟などが最初といわれている。彼らは吉野作造の流れを組むリベラリストで普通選挙運動を行った。らしい。

全学連結成

 戦後の教育復興で、GHQが打ち出していた国立大学の地方自治体委譲案や、大学理事会法案、授業料三倍値上げ案などが学生たちを刺激して学生運動は高揚していった。

 1948年6月1日に、授業料値上げ反対と大学理事会法案反対を掲げて、日比谷公園に約五千人の学生が集まって教育復興学生決起大会が開かれ、文部省までデモ行進を行った。その後、全国官公立大学高等自治会連盟が結成され、全国大学での一斉ストを決議。この運動の流れで、9月18日から三日間、全国国公立大学高等代表者会議を開き、全学連【日本生自治会総合】結成を決議することとなったのである。145校の大学が参加したこの大会で採択されたスローガンは次の六項目であった。

  • 教育のファッショ的、植民地的再編絶対反対
  • 学問の自由と学生生活の擁護
  • 学生アルバイトの低賃金とスト破り反対
  • ファシズム反対、民主主義を守れ
  • 青年戦線の即時統一
  • 学生の政治活動の完全な自由


初代の全学連は東大に本部が置かれ、委員長は武井昭夫(日共東大細胞リーダー)が就任し、中央執行委員会には安東仁兵衛、力石定一、沖浦和光などがいた。また、現在、日本共産党委員長の不破哲三、上田耕一郎の兄弟らもいた。このように、全学連は発足当時から日共の影響下に置かれていたのである。

最初の闘争で勝利

 全学連の結成で、戦後の大学再編を狙っていた文部省は動揺し、当時の政務次官の名前で「学生の政治活動について」というメモを全国の国立大学に配布した。内容は「学内での政治活動は許されるべきでない」「各大学の共産党細胞に対する解散命令」など、極めてレッドパージ的なものであった。また文部省は大学理事会法案に代わる、国家が大学を管理するための【大学管理法案】の国会提出を強行した。

 これに反発した全学連は各地の大学でストを決行した。東京では30数校で15,000人もの学生がデモ・ストに参加し、政府はこの学生パワーの前に、ついに大学法案の上程を諦めることとなったのである。全学連は、結成以来初の闘争で勝利を収めたのである。


日共中央との確執

 全学連を大衆運動として捉える学生党員と、あくまでも政党としての立場に固執する日共中央との関係に次第に軋轢が生じていった。党幹部が全学連の闘争運動が拡大する度に「極左トロツキスト」「小ブル的急進主義者」「階級的浮動分子」などと非難した事などが主な要因であった。日共は学生運動が力を持って全国的に拡大することを嫌っていたのだ。学生運動が高揚しすぎると党中央の統制が効かなくなるとの懸念からである。当時の日共は「学生は階級的浮動分子で、プロレタリアに指導されて初めて階級闘争に寄与するものにすぎない」という公式見解であった。


小ブル:左翼用語で頻繁に用いられる。小ブルとは、ブルジョアとプロレタリアの中間階級のこと。職人、店主、手工業者など。プチブルと発音する場合が多い。

コミンフォルムの日共批判

 日共は、アメリカ統治下の日本においても平和的革命が可能だとしていたのだが、1950年1月7日、世界の共産主義運動を指導する立場にあった【コミンフォルム】が日共のこの路線に対して「幻想」だとして全面的な批判を行ったのである。日共中央はこれに対して「所感」という形で抵抗を表明したが、中国共産党も日共批判を浴びせてきたので、仕方なしにコミンフォルムの批判を受け入れた。

 これがもとで、日共は、党中央の主流派=所感派、反主流派=国際派として二分してしまうのである。1951年2月、所感派は軍事方針と国際派を批判する決議を行い、これに対してコミンフォルムが支持を表明、結果として国際派は追放・除名処分とされてしまったのである。追放された学生たちは1951年11月に、反戦学生同盟【反戦学同】を結成し、後に【社学同】に発展していった。


当時の全学連中執委は多くが国際派だったため、1952年6月の全学連第五回大会で武井委員長らが地位を追われ、全学連は所感派=日共中央寄りの学生党員が主導権を握り「所感派全学連」と呼ばれた。

山村工作隊と中核自衛隊

 この頃はまだ日共中央は武装闘争路線であった。1951年10月の5全協(第五回全国協議会)での「農村部でのゲリラ戦こそ最も重要な闘い」とした新綱領にもとづき「山村工作隊」「中核自衛隊」が創設された。これらの任務に就くため、戦闘的な学生たちは大学を離れ、農村に移住していった。この頃に「球根栽培法」「栄養分析表」などのゲリラ戦・爆弾製造の教科書とも呼べる武装闘争支援文書が学生たちの間で流通していった。


これらの当時の危険文書のコピーは、遊撃インターネットで入手できます

六全協〜日共の武装闘争路線の放棄

 1955年7月、日共は六全協(第六回全国協議会)を開いて、それまでの武装闘争方針を「極左冒険主義」だったとして自己批判し、突如、穏健な路線へと転向してしまうのである。党中央の実権は国際派の宮本顕治が握り、山村工作隊、中核自衛隊を解消し、これまで党中央に従っていた戦闘的学生たちに大きな衝撃を与えた。日共中央に忠実な全学連指導部は、これまでの運動を右寄りに修正し、日常要求路線という極めて穏健な路線へと変化させた。これは、多くの戦闘的学生活動家に不満を与えた。この日常要求路線は、同年9月の全学連第七回中央委員会で、自治会を「サービス機関」として定義し、いわゆる「歌って踊って」の路線、「七中委イズム」と呼ばれた。しかし、この路線は一年後には姿を消す。


この年は保守合同によって、現在の自民党が結成され、社会党も右派と左派が合体し、保守と革新の二大政党が確立されたいわゆる55年体制がスタートした年であった。

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