[1-誕生の歴史] [2-セクトの誕生] [3-三つの全学連へ] [4-全共闘運動へ]
[5-革マル派系全学連] [6-中核派系全学連] [7-解放派系全学連] [8-あとがき]


砂川闘争

 1955年5月、防衛調達庁は米軍立川基地の滑走路延長のため、東京都西部の砂川町の約52,000坪を接収すると発表した。これが強行されれば地元農民の被害は甚大であるから、当然ながら反対運動が起こる。住民は反対同盟を結成し、盛んに反対運動を繰り広げていた。全学連もこれに同調し、全国から約3,000人の学生が集まり、現地で寝泊まりしながら地元反対同盟や、反対を支持する労働組合員とともに反対運動に参加した。滑走路端の畑に高さ8メートルもの竹竿を何本も突き刺したり、農民たちは藁を燃やして煙幕を張り、離着陸する米軍輸送機に対して妨害を行ったりした。

 1956年の秋には第二次強制測量が強行されようとしており、これを阻止せんとする全学連部隊、反対同盟らが警官隊と激突、多数の負傷者・逮捕者を出したが、2日間にわたる攻防戦で抵抗を続け、ついに当時の鳩山内閣は測量中止を発表した。結果的に、全学連と反対同盟側の勝利であった。


反対同盟を支援した労組には三多摩労協、総評などがあったが、のちに総評は戦線離脱する。

立川基地は現在も短い滑走路が残り、米軍撤収後は陸上自衛隊が駐屯して主にヘリコプターが発着している。西側には広大な昭和記念公園が造られている。

スターリン批判とハンガリー暴動

 1956年2月に、ソ連共産党第20回大会で、フルチショフ第一書記が「スターリン批判」を行った。当時、スターリンといえば全世界の共産主義者の最高指導者として神格化されていただけに、このスターリン批判の衝撃は大きかったようだ。同年10月には衛星国のハンガリーで民衆暴動が起き、ソ連軍が戦車とともに軍事介入して市民を弾圧するという事件も起た。日共はこのソ連軍の行動を「帝国主義勢力からの危険な干渉と闘う」として支持。この事が多くの学生党員らに「党は唯一絶対」とする信仰を崩壊させ、日本共産党=前衛党=革命党という幻想的図式は完全に崩れさり、全学連内部でも反日共系が主流派を形成していった。


反帝・反スタ路線、社学同結成

 1958年5月に第11回全学連大会が開催され、この大会で日共は、党中央寄りの反主流派を援護しながら、主流派の追い落とし工作を策動したが失敗。結果として日共中央に批判的な主流派(トロツキスト系)が全学連の主導権を握った。主流派は、ソ連と日共中央を「スターリニズム」「官僚主義」と規定して、反帝国主義・反スターリン主義のいわゆる「反帝・反スタ」路線へと転換し、日共離れをより一層推進し、トロツキズムへ傾いていった。

 また、同月には反戦学同が全国大会を開いて社会主義学生同盟【社学同】への改組を決定した。日共の「民主主義革命」路線に対して、明確に「社会主義革命」路線を掲げた。社学同は12月に結成されるブントと一体になり活動していく。


反帝・反スタ:革共同などは、中核、革マルに分裂してからもこの路線を基本的に継承している。ソ連をハード・スターリニスト、中国をソフト・スターリニストとした。日共もまた、スターリニストと定義され、攻撃の対象となった。

6.1事件と反代々木系の誕生

 大会翌日の6月1日に、日共中央は全学連幹部の学生党員を集めて会議を開き、全学連を日共の傘の中に引き戻すべく直接指導に乗りだしたが、冒頭から議長の選出を巡って全学連主流派と日共中央の間に殴り合いが起こり会議は決裂した。このことから日共中央は香山健一委員長、島成郎ら72名を除名処分とした。この除名された学生党員ら20名程度が中心になって、同年12月に【共産主義者同盟=ブント】が結成されるのである。当時のメンバーには、今も中核派指導部にいる北小路敏、清水丈夫らがいた。

 この頃には黒田寛一らの【日本革命的共産主義者同盟=革共同】も設立されており、共産同、革共同というふたつの反日共勢力ができあがっていたのである。これらの勢力に対して日共は、お約束通り「トロツキスト」のレッテルを貼り非難した。


反代々木系:日本共産党本部が東京の代々木にあることから、党中央に反発する左翼は反代々木系と呼ばれた。

革共同と共産同の主導権争い

1958年12月の全学連第13回臨時大会では、人事・方針ともに革共同派が優位に立った。しかし、革命路線をめぐって対立がおき、多くの学生活動家は共産同=ブントへと流れていった。ブントの影響力は次第に拡大していき、各大学の共産党細胞の多くがブントへ参加した。そして1959年6月の全学連第14回大会で、ブントは革共同から主導権を奪い、唐牛健太郎を委員長として選出し、執行部もほぼブントが独占した。いわゆる【ブント全学連】の誕生である。ブント全学連はこの後に起こる安保闘争で中心的な役割を果たす。


細胞:数人〜数十名からなる共産党員グループのことを細胞と呼んだ。

当時のブントは約1800名で学生が8割を占めていたという。

60年安保闘争

 1957年6月、当時の岸首相が、日米安全保障条約の改訂を表明した。これに対して日本社会党、総評、原水協などが「安保改訂阻止国民会議」を結成し、日共はこれにオブザーバーという立場で加わっていた。ブント主導の全学連もこれに同調し、安保改訂阻止、岸内閣打倒のスローガンを掲げ、国会突入闘争や羽田空港での岸渡米阻止闘争などを指導したが、唐牛委員長以下、多くのブント指導者は1月の羽田闘争で逮捕されてしまう。また、6月15日の国会突入闘争ではブントの東大生、樺美智子が南門での警官隊との衝突で死亡するなどの悲劇が起きた。結果として、安保条約はデモ隊が国会議事堂をとりまく中、虚しくも自動承認されてしまった。直後に、岸内閣は退陣し、60年安保闘争は幕を降ろした。60年安保闘争の大きな動きは以下の通り。

1959 11.27 国会突入闘争
1960 1.16 岸渡米阻止羽田闘争
1960 4.26 国会前装甲車突破闘争
1960 5.19 新安保条約強行採決抗議深夜デモ
1960 5.20 首相官邸突入
1960 5.26 17万人国会包囲デモ
1960 6.3 首相官邸突入
1960 6.4 国労・動労スト 全国で560万人が抗議
1960 6.10 ハガチー米大統領秘書官来日抗議羽田闘争
1960 6.15 国会突入闘争
1960 6.19 午前零時、安保自然承認


学生戦線の分裂の始まり

 安保闘争中の1960年3月の全学連第15回臨時大会で、全学連主流派は日共系(反主流派)と羽田闘争をボイコットした革共同関西派を加盟費未納などを口実に完全に締め出し、全学連におけるブントの主導権をがっちりと固めた。日共系はこれに対抗し、東京都自治会連絡会議【都自連】を結成し、全学連主流派とは別の運動を展開していくことになる。都自連は後述する【全自連】から【平民学連】と名称変更し、現在の日共系全学連として独立した全学連組織へと受け継がれていく。


この頃すでに革共同内部では分裂が進んでおり、関西を中心とする関西派と、黒田寛一を中心とする全国委員会派とに分裂していた。

安保総括を巡ってブント=社学同分裂

 安保闘争敗北後の1960年7月に開かれた全学連第16回大会でブントは安保闘争の総括を行うが、主に東京のブントは三分裂してしまう。それぞれのグループの機関紙の名前をとって「戦旗派」「プロレタリア通信派」「革命の通達派」と呼ばれる。戦旗派は革命的戦旗派と改称するが、のちに革共同全国委へと移行していく。プロ通派の一部も革共同全国委に移行した。こうしてブント=共産主義者同盟は結成からわずか二年で解体してしまったのである。ブントは安保闘争に組織を賭け「安保が倒れるか、ブントが倒れるか」と公言していた。ブントの解体は必至だったのかもしれない。東京のブントは分裂したが、関西のブント=社学同は独自の安保総括を獲得して分裂は免れた。東京では、明大や中大の社学同はが分裂せずに、独自の道を歩んだようだ。


この第一次ブントは8割が学生で成立しており、革命党に欠かすことの出来ない労働者の組織化はほとんど完成できぬままに終わった。

マル学同の登場

 安保闘争中の1960年4月、革共同は学生組織として日本マルクス主義学生同盟【マル学同】を組織する。ブントの社学同と同じような位置付けである。マル学同は日共を「右翼的」とし、ブントを「街頭極左主義」として学生の中間層をうまく掴んで組織を拡大した。そして戦旗派など、安保総括で分裂したブントの一部を吸収したため、全学連においても主導権を継承した。1961年5-6月にはマル学同は政治的暴力行為防止法案【政暴法】粉砕闘争に積極的に取り組んだ。


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