マル学同・つるや連合・全自連 1961年7月の全学連第17回大会が開かれるのだが、この大会前夜に、マル学同=革共同全国委のイデオロギー主義的、セクト主義的な学生運動に反発した社学同、革共同関西派、社青同が「反・マル学同」で意見の一致を見、飯田橋のつるや旅館で対策を講じたことから、この三派は「つるや連合」と呼ばれた。つるや連合は17回大会でマル学同から主導権を奪おうと計画する。 また、日共=民青系の学生たちもマル学同に反発し、1960年7月に全国学生自治会連絡会議【全自連】という組織を作り、17回大会で全学連の主導権を再び日共の指導下に置こうと策略した。 |
社青同:日本社会主義青年同盟。1960年に社会党の青年組織として結成された。 民青:日本民主青年同盟。日共が指導する青年組織。 |
角材による「内ゲバ」 マル学同は、日共系=全自連に対しては、自治会費の未納を理由に全学連から完全に排除し、つるや連合に対しても代議員の数を削減したりしてマル学同による全学連独裁体制を狙った。 全学連第17回大会はこうした三つの勢力が対立する背景の下、両国で開催された。マル学同側は大会議長をマル学同内部から選出し、議案を強行採決しようともくろむ。それに対し、つるや連合は早朝から会場を占拠して対抗。そこにやってきたマル学同は座り込んでピケを張るつるや連合に対して、はじめは殴りかかっていたが埒があかず、近所の材木屋で角材を調達してきて武装し、アッと言う間につるや連合のピケを排除し、会場を奪還してしまった。学生派閥抗争で、初めて公然と武器が登場した瞬間であった。 面白いことに、その乱闘の最中に日共系の全自連が会場に入って来ようとすると、マル学同とつるや連合は乱闘を中止して、一緒になって全自連を追い出し、全自連が去るとまた乱闘を開始したという。この乱闘は2日間にわたって続き、最終的にはマル学同以外は大会をボイコットし、それぞれ大会を開き、17回大会はマル学同の単独で終了してしまった。この大会でマル学同はブント出身の北小路敏を委員長に選出し、反帝・反スタ路線を押し出し、より一層、黒田理論で武装したマル学同=革共同色が濃くなった。 |
この角材ゲバルトを指導したのが、清水丈夫全学連書記長であった。当時の清水氏のペンネームが岡田新と言うことから、角材によるゲバを「岡田式暴力的衝突を含めた党派闘争」などと言った。 |
三派連合と社学同の分裂 1961年の日共第8回党大会では、【構造改革派】と呼ばれる部分が日共中央と対立して分離。日共中央からは右派、修正主義と非難された。構造改革派は内部にいくつもの潮流があったが、反日共中央という立場で、社青同、社学同と行動をともにし、12月に反マル学同の【三派連合】を結成した。 旧ブント系の活動家は、安保闘争でブントと共に解体してしまった社学同を再建しようと、主に都内の明大、中大、東大、早大などで「社学同東京委員会」を再建し、社学同統一への道を模索するが、社学同内部でマルクス主義戦線派【マル戦派】とマルクス・レーニン主義派【ML派】に分裂してしまい、東京の社学同はまたもや分裂してしまう。 |
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マル学同、中核と革マルに分裂 1963年に入り、マル学同の上部指導組織の革共同全国委員会で路線対立が起き分裂。学生組織のマル学同も革マル派と中核派に分裂する。マル学同内部では革マル派が圧倒的多数だったため、中核派は必然的にマル学同全学連から追われ、学生運動での活動の基盤を失った。これより後は、革マル派は全学連を独占し続け、早稲田大学を拠点に【革マル派全学連】として現在まで続いている。 |
分裂の詳細は「中核派と革マル派」を参照 |
日共系全学連の発足 学生運動の中でも日共中央に忠実な日本民主青年同盟【民青】系の学生組織は、全自連から全学連再建準備協議会を経て、構造改革派が分離した後、「安保反対・平和と民主主義を守る全国学生連絡会議」【平民学連】を組織した。この組織は日共寄りの独自の運動を展開しながら1964年12月にようやく【民青系全学連】として「全学連」を名乗り、革マル派全学連に続いてふたつの「全学連」が出現することとなったのである。この民青=日共系の全学連は現在も最大の全学連組織である。 |
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三派系全学連の誕生 行き場を失ったマル学同・中核派は、反マル学同連合の三派連合(構造改革派・社青同・社学同)にすり寄り、さまざまな対立点を残しながらも、四派連合として革マル派全学連に対抗した。やがて、この四派連合からは構造改革派が離脱し、社青同のラジカルな部分が【社青同・解放派】を結成。社学同からはマル戦派が離脱した。この三者(解放派、社学同、中核派)で「新・三派連合」が形成されていった。この新・三派は、1965年7月に三派都学連を結成し、翌1966年にはML派なども合流して【三派系全学連】として「全学連」を名乗った。 三派の中で一番立場の弱かった中核派は、後に明治大学の学園闘争でブント系の斉藤委員長が学校側と秘密のボス交を行ったのが明るみに出て失脚、代わって、中核派の秋山勝行が委員長に就任し、中核派は三派全学連で主導権を握るに至る。 これで「全学連」は革マル系、民青系、三派系と三つの潮流を迎えた。このため、各派全学連のビラや立て看板、横断幕には「全学連(○○委員長)」のような書き方をして他派と区別をしていた。現在でもこれは変わっていないようである。どの全学連も自分たちが「正当な」全学連を自認しているからである。 |
三派系全学連:分裂していた社学同(共産同)統一派とマル戦派が合流した第二次共産同=社学同、中核派、社青同国際主義派(第4インター系が加入戦術して分派。後の学生インター)とML派などが合同して結成された。 |