ベトナム反戦運動の潮流 新しく登場した第三の全学連=三派系全学連は最も行動的な全学連であった。その中心的役割を果たしのは三派の中で一番立場が弱かったはずの中核派であった。その頃ベトナムでは米軍の軍事介入が本格化し、アメリカが東南アジアの共産化を阻止すべく、泥沼の戦争を繰り広げていた。グアムや沖縄の米軍基地からも、連日のように軍用機が飛び立っていった。 1965年には社会党系の青年労働者組織の「ベトナム戦争反対・日韓条約批准阻止のための青年委員会」が結成される。いわゆる【反戦青年委員会】である。また同年には「ベトナムに平和を!市民連合」いわゆる【ベ平連】も結成され、一般市民も反戦運動に立ち上がっていった。 |
反戦青年委員会:社会党系の青年組織として発足したが、内部で徐々に新左翼系が勢力を伸ばし「全国反戦」は完全にセクトごとにわかれ、党派ごとの「地区反戦」が形成されていった。 | ||||||||||||||||
佐藤ベトナム行き阻止羽田闘争 1967年10月からの七ヶ月は、後に「激動の七ヶ月」と言われ、三派全学連の、特に中核派の行動が目立った。また、この頃からヘルメットにタオルで覆面、角材のゲバ棒という戦闘スタイルが定着した。 当時の佐藤栄作首相の南ベトナム訪問が発表され、三派全学連はこれを実力阻止する方針を打ち出した。10月8日、前夜から中央大学に泊まり込んでいた社学同と社青同解放派の学生約900人はヘルメットと角材で武装し、お茶の水駅から京浜急行大森海岸駅に向かった。そこから同部隊は首都高速の鈴が守ランプへ入り、機動隊を突破して羽田空港へと向かった。穴守橋で反戦青年委員会と合流し、穴守橋上で機動隊と激しく闘った。下流の稲荷橋では早稲田の革マル派学生約400人が機動隊と衝突。ふたつの橋の上では警察の警備車輌が放火されて燃え上がった。さらに中核派の部隊約1000人は弁天橋で機動隊とぶつかり合った。この闘いで、京大から応援に来ていた山崎博昭が警備車輌にひかれて死亡する事件が起こった。 結果として、佐藤首相は羽田を離陸したが、この闘いは「革命的左翼誕生の日」として新左翼史上に残るものであったという。 その日、日共は何をしていたかというと、「赤旗祭り」なる催しを多摩湖で行い、この三派系学生たちの阻止行動を「一部の暴力学生集団による挑発行動」として非難した。民青系全学連は、形だけの代表数十人を羽田へ派遣しただけだったという。 この闘争を皮切りにした「激動の七ヶ月」では主に、「佐藤訪米阻止・第二次羽田闘争」「佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争」「王子野戦病院建設阻止闘争」「三里塚空港阻止闘争」などがあった。書けばキリがないので詳しい内容はここでは割愛する。 |
ゲバ棒:そもそもゲバとはドイツ語で「暴力」を意味するゲバルトから来ている。左翼用語はドイツ語が多い。1.5メートルほどの角材が多かったようだ。 日共派の民青は「民主化棒」というカシの木の短い棒を持っていた。また、革マル派は大学構内で長い竹竿をブンブンと振り回して他の学生を威嚇した。他党派はこれを「革マル体操」と呼んだ。 羽田闘争の写真は遊撃インターネットで見ることができます | ||||||||||||||||
三派全学連崩壊・中核派全学連結成 1967年10月8日の羽田闘争後、三派全学連内部で矛盾が表面化し、翌1968年6月15日の日比谷野音で行われた「ベトナム反戦青年学生総決起集会」で、中核派 VS 革マル派・解放派連合の乱闘騒ぎが起きる。この事件によって三派全学連は、その中枢を担ってきた中核派と社青同解放派が反目し合ったために破綻する。翌7月の三派全学連大会で、ついに中核派は【中核派全学連】として単独大会を開催して、正式に三派全学連から離脱した。 これに対抗して、反中核派連合の社学同、ML派、社青同解放派、第4インターなどが【反帝系全学連】を発足させた。これで四つの全学連である。 しかし、反帝系全学連は主に、社学同と社青同解放派の対立が激化し、1969年3月、社学同派が単独で大会を開催し【社学同派全学連】を発足。返す刀で7月には、社青同解放派が単独大会を開き【解放派全学連】として独立した。解放派全学連は現在でも明治大学を中心に活動を続ける全学連である。 一方、社学同派の全学連はわずか三ヶ月後に社学同内部での内紛が激化し、またもや社学同=共産同は解体してしまうことになる。一時的に「全学連」は五つも存在したが、現在の四つの全学連に落ちついた。 |
ML:現在ではMLと言えばメーリングリストの時代だが、左翼の世界では「マルクス・レーニン」のことである。 社学同ML派から分派した日本マルクス・レーニン主義者同盟は、毛沢東主義に傾倒し、東大闘争では列品館での攻防で有名になった。1970年12月に事実上の解体を迎え、一部はのちのマル青同へと流れた | ||||||||||||||||
学園紛争から全共闘運動へ 1968年頃からは、各地で学園紛争が盛んになり、多くの大学でバリケード封鎖やストが起こった。日大、東大では全学共闘会議【全共闘】が結成され、セクトに属さないが、政治的意識を持ったノンセクトラジカルと呼ばれる一般学生らも多く参加した。 1969年1月の東大安田講堂での攻防戦を前に、東大全共闘から主要な建物の死守を任されていた革マル派が、機動隊導入前に「敵前逃亡」するという事態が起こり、もともと他派から煙たがられていた革マル派の孤立は決定的となった。 結局、「安田城」は落城するが、1969年9月5日、民青、革マル派を除く、8派が参加して日比谷野外音楽堂で【全国全共闘連合】が結成された。参加した8派は以下の通り。右はその上部政治組織
逮捕拘留中の山本義隆・東大全共闘議長が議長に、秋田明大・日大全共闘議長が副議長に選ばれた。この連合は、全く性格の違うセクトが連合した、まったく不安定な代物であり、翌年には山本議長が辞任し、全国全共闘はセクト色が濃くなり、一般学生から離れていき消滅してしまうことになる。 |
日比谷屋音の全国全共闘の結成大会に、この日はじめて武闘派の最極左として結成された約100名の共産同・赤軍派のメンバーが登場したのも話題になった。赤軍派はこの後、さまざまな過激な事件を起こして世の中を震撼させた。数ある共産同分派の中でも知名度は一番だろう |