京浜過激派研究会・山崎弘光 |
| 中核派と革マル派、両派は日本の新左翼勢力の最大党派である。この両派は1963年までは「日本革命的共産主義者同盟全国委員会」と言う同じ組織であったが、路線の食い違いにより分裂し、現在でもお互いを「反革命」と定義して激しく対立し合っている。この分裂は左翼史上では「革共同第三次分裂」と呼ばれている。第三次と言うからには当然、一次・二次があるのだが、一言で済ませるには事情が複雑であるので、まず両派の母体となった「革共同」の成立から見ていくことにする。 | ※この原稿を書くにあたって、さまざまな資料を参考にしましたが、もし、間違っている部分があったらご指摘下さい。 |
革共同の成立 革共同とは【革命的共産主義者同盟】の略称である。革共同は1957年12月に、黒田寛一、太田竜、西京司らを中心にして結成された。黒田氏はつい最近まで革マル派の議長として君臨してきた人物である。この黒田氏は自前で「こぶし書房」と言う出版社を設立し、1952年頃からさまざまな社会学的な書籍を執筆・出版していた。そうしていくうちに黒田氏の下にマルクス主義研究会のようなサークルができあがり、4人のメンバーで「弁証法研究会・労働者大学」と言うサークルを作った。やがてサークルは大きくなり「探求」と言う雑誌を出版するようになる。このミニコミ誌によって、黒田氏の影響力は全国的に浸透していったのである。そして、革共同の前身である【日本トロツキスト連盟】が発足する。 |
トロツキーというのはロシア革命でスターリンとの政争で破れ、亡命先のメキシコでスターリンの刺客に暗殺された革命家である。当時の共産主義運動ではトロツキーは反革命的とされ、反革命分子を「トロツキスト」呼ばわりした。 |
第一次分裂 日本トロツキスト連盟は日本共産党を中心に「加入戦術」を展開していた。加入戦術とは、対象となる組織に加入し、内側から組織の切り崩しを行う戦術である。その加入戦術が巧を奏してか、日本共産党京都府委員の西京司氏が日本トロツキスト連盟に加入してくると、同連盟は間もなくして【日本革命的共産主義者同盟】と改称した。しかし組織は早くも内部分裂を起こす。1958年7月に、太田竜氏らのグループが【関東トロツキスト連盟】を結成して革共同から分離したのである。太田氏は純粋なトロツキスト(いわゆる純トロ)だったが、黒田氏は「トロツキズムは批判的に摂取していくべき」との立場から意見が食い違ったのである。この太田派はのちに【日本トロツキスト同志会】と改称し後の【第四インター日本委員会】になる。革共同から分離した太田氏は日本社会党への加入戦術を行い、学生運動民主化協議会(学民協)と言う組織を作り、当時の学生運動の中では右寄りな路線をとっていた。 |
その後、太田氏はアイヌ解放運動に身を投じていき、最近では民族主義的な活動をしているようだ。 |
ブントの成立と第二次分裂 この時期に共産党を除名された学生グループたちが、新しい革命党を建設するとして1958年12月に【共産主義者同盟】(共産同とかブントと略される。BUNDとはドイツ語で同盟の意味)を結成し、革共同と共産同=ブントと言う新左翼の二大潮流が形成されたのである。ブントは見る見る組織を拡大し、当時は革共同が主導権を握っていた全日本学生自治会総連合【全学連】までをもを支配するに至ったのである。この破竹の勢いのブントに焦ったのは組織を横取りされた形になった日共と革共同であった。 元日本共産党の京都府委員であった革共同創立メンバーの西京司氏はその人脈から関西地区での組織を拡大し【革共同関西派】とも呼べるほどの組織を作り上げ、革共同内部でも主導権を握るまでにり、西氏は政治局員だった黒田氏を解任した。黒田氏の理論がブント結成に影響を及ぼしたと言うのがその理由だったらしい。そこで黒田氏は本多延嘉氏と共に【革共同全国委員会】と言う組織を作り、西氏の関西派と分離する。1959年8月のことである。これがいわゆる革共同第二次分裂である。 |
ブントには日共の大学生細胞などが組織的に流入していった。なかでも日共港地区委員会が組織ぐるみで移籍してくるといったケースもあった。 |
ブントの分裂と革共同全国委の拡大 黒田氏と本多氏の革共同全国委員会はそれまでのトロツキズムから「反帝・反スタ」路線に転換していく。そして、1960年にはブントの学生組織の社会主義学生同盟【社学同】に対抗する形でマルクス主義学生同盟【マル学同】を組織し、学生を中心に組織を拡大していった。 やがて、60年安保闘争敗北後の総括を巡って、おもに関東のブント=社学同が「戦旗派」「プロレタリア通信派(プロ通派)」「革命の通達派(革通派)」に三分裂すると、戦旗派は「革命的戦旗派」と改称した後、革共同全国委へ合流した。プロ通派も解散を決議した後に、一部が革共同全国委に流れたのである。こうして革共同全国委はブント残党の流入によってその組織を飛躍的に拡大し、これによって全学連に於いても分裂したブント=社学同に代わって革共同全国委=マル学同が主導権を握るに至った。 ちなみにプロ通派から革共同に移行したメンバーには現在も中核派最高指導部に籍を置く清水丈夫氏、北小路敏氏などがいた。 |
反帝・反スタとは、反帝国主義・反スターリン主義のことである。革共同は共産党の路線をスターリン主義と定義して批判していた。 関西地区の社学同は独自の安保闘争総括を行い大きな分裂は避けられた。関西社学同はのちの第二次ブント再建の中心となる |
第三次分裂、中核派と革マル派の誕生 革共同全国委の中心人物であった黒田氏と本多氏の意見対立の発端は、1962年9月の第三回革共同全国委総会(三全総)であった。党の建設方針と労働運動戦術で黒田氏と本多氏の意見が対立し、上層部のみならず学生組織のマル学同内部でも黒田派と本多派に分かれて論争が起こったのである。 革共同全国委の政治局内部では本多派が多数を占め、黒田派についたのは現在JR東労組で活動している松崎明氏と森茂氏だけであった。こうして黒田氏は1963年4月に【革共同・革命的マルクス主義派】を結成して全国委から分離する形になった。これが革マル派の誕生である。 しかし逆に学生組織のマル学同では逆の現象が起き、多くの学生は黒田派に付き、本多派は極少数であったため、本多派の学生組織は【マル学同・中核派】として独立したのである。本多派の上部組織が革共同全国委のまま名称変更していないのはこのためである。中核派と言う名前はもともとマル学同の本多派に付いた名前だが、一般的に革共同全国委のことをひっくるめて中核派と呼ぶようになった。 また、革共同全国委の労働者組織のマルクス主義青年労働者同盟【マル青労同】も中核派と革マル派に分裂し、革共同全国委は完全分裂を遂げた。ここで各組織を明確にしておくと、、、 ●中核派 ●革マル派 となっている。両派の組織名が似ているのはこういった経緯があるからである。こうして革共同は第三次分裂を遂げ、双方が独自の路線を歩み、現在まで続く新左翼の二大党派になっていくのである。 革共同の組織変遷表 |
マル学同の学生はほとんどが黒田派=革マル派に移行し、都内の本多派=中核派の学生活動家数は18人にまで落ち込んだと本多氏自身が明かした。 立花隆・著「中核VS革マル」上巻95ページ |